はちみつ:ある風景と時間を閉じ込めたもの
LOST IN TRANSLATION: LIFE OF A JAPANESE GIRL IN ITALY
日本で育った私にとって、蜂蜜の使い道は2つくらいしかなかった。喉が痛いときにスプーンでひと口舐めるか、ヨーグルトにかけるか。パンケーキやフレンチトーストになると蜂蜜の味は強すぎる気がして、メープルシロップを選んでいた。「蜂蜜 or メープルシロップ?」くらいの基準しか持ち合わせていなくて、蜂蜜の瓶を選ぶときに花の名前を見た記憶もない。あれはなんの花だったんだろう。笑
だから大学の「The Art and Culture of Honey」の授業で、ワインのように花によって蜂蜜の味を比べ、料理に合わせると聞いて、新しい世界の扉が開いた。
講義をしてくれたのは、トレンティーノのヴァル・ディ・ノンに拠点を置く家族経営のブランド、Mieli Thunだった。彼らは花の開花を追い、巣箱をイタリア各地へ運ぶ「移動養蜂」をしている。採蜜場所は60か所以上。目当ての花が咲く短い時期に合わせ、蜂が巣に戻った夜に移動する。授業では、パドヴァ、マントヴァ、トレンティーノを巡る話や、暑い日は水を使って巣箱の温度を下げる工夫を聞いた。映画『Honeyland』で見た、ひとつの土地で蜂と暮らす養蜂とはずいぶん違う。夜に巣箱を運ぶという旅路の裏には、天候と開花を見極め、生きた蜂を世話しながら移動する仕事がある。花の名前がラベルに書かれた蜂蜜を見ても、以前の私は、その花を求めて養蜂家が移動しているとは想像していなかった。 家族の仕事について直接聞き、幼い頃から世界中を飛び回ってきた彼女の人生にも少し触れた気がした。

蜂は花の蜜を集める。そのとき身体についた花粉が別の花のめしべに運ばれると、受粉が起こり、植物は実や種をつくる。蜂を含むさまざまな送粉者が、私たちの食卓にある果物や野菜の多様さを支えている。FAOによれば、動物による受粉は世界の作物生産量の約3分の1に関わっている。送粉者がいなくなれば、いちごやトマトなどの果物や野菜、コーヒー、カカオなどの収穫・牛たちの牧草や、食卓の多様さに大きな影響が出る。
一方で、花が咲く場所へ蜂を運べば、必ず蜂蜜が採れるわけでもない。2019年の取材で、Mieli Thunの創業者Andrea Paternosterは、利用できる60の採蜜場所をすべて同時に使うわけではないと話している。アジアーゴ高原では晩霜のため、3年間タンポポの蜂蜜を採れなかった。2019年の生産量も、平年の約400キンタルに対して約80キンタルだったという。養蜂家は場所を選び、蜂を運び、世話をする。でも、花を咲かせたり、その年に採れる蜜の量を自由に増やしたりはできない。蜂は、よさそうな花を見つけると仲間にその場所を伝えるのだという。どの花へ向かうかまで、養蜂家が決められるわけではない。その年の天候や花と蜂の働きが、ひと瓶の蜂蜜に表れる。
今回講義に来てくれたのは、現在家族の仕事を継ぐFrancesca Paternosterだった。彼女は、蜂蜜を森や山、田園の「ある一瞬を写した写真」のように表現していた。その言葉を聞いて、蜂蜜の味が毎年同じでなくても不思議ではないと思った。同じ花の名前がついていても、そこにはその年の天候と、その場所で咲いた花がある。ひと瓶が、ある土地の、ある季節の記録になっているのがとても美しくて、素敵だと思った。
花の違いは、香りや味だけでなく、質感にも現れる。蜂は集めた蜜にインベルターゼ(スクラーゼ)という酵素を加え、ショ糖をブドウ糖と果糖に分ける。さらに巣の中で水分を減らして、蜂蜜にしていく。インベルターゼはベーカリーでも使われる酵素だと知って、少し身近に感じた。できた蜂蜜には、とろりとした液状を保つものもあれば、白く結晶化して、細かな結晶がショリっと舌に触れる、クリーム状のものもある。この違いには、花の種類によって変わるブドウ糖と果糖の割合が関わっている。Mieli Thunによると、ブドウ糖の多いツタの蜂蜜は、巣の中にあるうちから急速に結晶化するそうだ。私は蜂蜜が白く固まると、自分の部屋の温度や保存の仕方が悪かったのだと思っていた。温度も関係するけれど、もともと花によって固まりやすさが違うとは知らなかった。 Mieli Thunは、こうした違いを味わうための言葉も用意している。蜂蜜を脚付きのグラスに薄く広げ、色、香り、味、舌に触れる質感を順に確かめる。


そして独自の「Mielicromia」では、花ごとの蜂蜜について、色や香り、味、結晶の状態を、植物や採蜜地の情報とともに記述している。私がひとまとめに「蜂蜜」と呼んでいたものに、選び分けるための言葉があった。「ワインのように味わう」とは、高級そうなグラスを使うことだけではない。花と土地の違いを、実際の味と結びつけて理解することなのだ。私が好きだったのはarancioとsullaだった。
蜂蜜だけじゃない、蜂の巣から生まれるもの
ローヤルゼリー
働き蜂がつくる、幼虫のための特別な食事。生まれて間もない幼虫はみんな口にするが、女王蜂になる幼虫はその後も与えられ続ける。イタリアに初めて来た翌日、ローヤルゼリー入りのヨーグルトを食べたことを思い出した。ねっとりしていて、まろやかなリッチなコクがあるのに、甘さは上品。あの味にハマってしまった。
花粉
食べると粉っぽく、最後に少し苦みとえぐみが残る。質感は、子どもの頃に飲んでいたものを思い出した。たんぱく質は100gあたり約20〜25g含まれるという報告もあり、数字だけ見るとチーズと同じくらい。でも実際に食べる量は少ないので、「プロテイン源」というより、栄養や香りのアクセントという感じだ。パンプキンスープやヨーグルトにかけて食べるのがおすすめだそう。

プロポリス
蜂が植物の樹脂などを集め、巣の隙間をふさぐのに使うもの。のど飴やスプレー、サプリ、チンキとしても売られている。授業では、プロポリスをアルコールや水に浸し、約40日かけて成分を抽出する方法も聞いた。

ミード(蜂蜜酒)
授業で飲んだのは、Mieli Thunの発泡性ミード L’Esuberante。蜂蜜のお酒だから甘いのかと思っていたら、飲んだ瞬間にアルコールを強く感じ、味もスパイシーで驚いた。山の百花蜜と水にブドウのモストを加えて発酵させ、さらにヘザーの蜂蜜を使って瓶内で20か月かけて二次発酵させるという。蜂蜜から、こんなお酒もできるんだ。塩気のある料理やチーズと一緒にも飲んでみたい。

蜂蜜を薬のように扱うだけではもったいない。Mieli Thunは、蜂蜜を料理の立派な「材料」として考えている。
授業の後半にはシェフが来て、蜂蜜を使った料理を見せてくれた。オレンジの花の蜂蜜をオリーブオイルとレモンで乳化させた、野菜のディップソース。泡立てた蜂蜜のバタークリームにアンチョビをのせたパン。柑橘とオレンジの花の蜂蜜でマリネしたトラウト。肉や魚を蜂蜜でマリネするなんて、私にはなかった発想だ。これからは自分でドレッシングをつくる時にも、蜂蜜を使える。

蜂蜜は、できあがった料理に甘さを足すだけのものではない。酸味や塩味、魚の風味と組み合わせながら、どの花の蜂蜜を使うかを考える材料なのだ。水分を引き寄せる性質もあり、焼き菓子に使えば乾燥を遅らせることもできる。香りや甘さだけでなく、料理の質感や水分の保ち方にも関わると知って、蜂蜜は砂糖やメープルシロップと何となく交換するものではなくなった。
蜂蜜は糖分だし、毎日たくさん食べたいと思ったわけではない。それでも次にひと瓶買うときは、値段だけでなく、花の名前を見て選びたい。そして、少しずつ料理にも使ってみたい。ひとさじの向こうに、蜂が訪れた花と、季節を追って働く養蜂家がいることを、私はもう知っている。
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